昭和45年6月22日 朝の御理解


御理解 第六十節 「おかげは受け徳 受け勝ち」


 いろいろの内容を持った御理解だと思います。だから いろいろに説かれております。ここでもいろいろに、例えば この前なんかは、結局お徳を受けた者が勝ちだと、勿論その通りであります。お徳も受けた者にはかないません。もう いくらばたばたしたところで、お徳を持った人には適いません。ですから お徳を受けた者が勝ちだと・・・・・・
 今日 私は、おかげは受け徳と仰せられます。だから、ここのところをおかげは受け勝ちだと そういうような意味で、ここのところを頂きたいと思います。その為にどうでもおかげを、受け勝ちという その受けられる心と、まあ 受け勝ちにできれる心の状態と申しましょうか。
 信心の心得の中に「我が心で我が身を生かす事もあり殺す事もあり」と有ります。だから今日は、この御神訓と、おかげは受け徳受け勝ちと、勿論  徳を受けた者が勝ちですけれども、という事は  まあ 別に於いてですねえ  おかげは受け勝ちだという、いうなら おかげの我利我利亡者のような感じがしますけれども、誰だっておかげを頂き続けたいし受けたくないという人は一人もおりません。
ですから  やはり おかげを受けなければなりません。もう本当に おかげを頂
き続けれる生き方というものがあるとするなら、やっぱり それを体得しなければなりません。
  それにはね やはり 我が心で我が身を生かす事もあり殺す事もありとおっしゃるのですから、我が心をいつも生かしておれれれる 自分で自分の心をさいなまれたり、又は心を暗くしたり いわゆる自分で自分の心を殺すような事では
だから おかげは頂かれない訳ですね。
  だから いつも 自分の心を生かしていくと云うか、私は、おかげを頂き続けると云う事はね  こう云う事だと こう思うです。
  おかげを受け続ける 本当に受け勝ちであります。受け勝ちに出来れるおかげを、自分で、自分の心で よう受けない 目の前に来ておるおかげまでもピシャット止めてしまうといったような事ではいけません。おかげを頂続ける事は出来ません。
 ですから 自分の心で我が身を生かしていくと云う いわゆる我が心おかげを生き生きしたものにしていくという・・・・・
  昨日 午後の奉仕の時、ある青年の方が久しぶりに参って来ました。「もう先生 僕は駄目です」と言うのです。「もう僕は神様が、分からなくなりました」もう本当に涙ぐんでいうんですねえ 真剣にもう、自分のような者はとても信心によっておかげを頂いてゆけれる身じゃないんだというような言い方なんです。それでもお参りして来ておるところは、そこにかすかに やはり救いを求め、助けを求めて来ておる事に 違いはないのですねえ  「誰にだってね 信心のそういう時があるよ 云うならスランプ状態のような時があるよ」というて
 けれども どういうスランプの時でもね、例えて云うとね 例えば夫婦喧嘩でも[家庭に不和の無きが元なり]とおっしゃるから 喧嘩をしてはならんという事ではない 人間だから やっぱり夫婦喧嘩の事もある 信心しよりゃお芝居を見ちゃならんとか、遊びに行っちゃならんという事は決してないのだと、
例えて、私共が小学校時代の事を考えてごらん、一生懸命勉強させられますけども、やっぱり遠足も有るし 運動会も有るし 学芸会も有るし やっぱり楽しい事やらおもしろい事がいっぱい。そんなら勉強中だって勉強が済んだら楽しゅう遊ばせてもらえる、その遊びの中には そんならラムネの玉を転がして遊ぶ事もあるしパツチを打って遊ぶ事もあるし様々な遊びがあったろうが。それを誰がとがめるか 勉強しながら遊ぶのですから子供は子供らしい遊びがある 青年は青年らしい遊びがやっぱりある。それをちっとばっかり例えていうと、遊びすぎた
とか信心しとってこんな事して、もう俺は救われないんだなんていう事はない
例えて云うなば、夫婦喧嘩しとってかんま〔あ〕ん  只、夫婦喧嘩をしながら
「金光さまぁー」を唱えてするんだと 本当に例えば夫婦喧嘩じゃなくても、自分は こういう事をしている、こういう事では神様が「信心しとるもんがそういう事では」と云われるだろう もう とことん自分は、ずるずるまあ云うなら泥沼に足をつっこんだように、自分は落ちて行ってしまっている自分を感じる。そういう時でも泥沼まででもです 神様を一緒にお供していくという気持ちがね、 そう落ちながらでも、生神金光大神を唱える事を忘れなさんな。「そんな事で
いいでしょうか」「いいも何もないがねーこの神様はね、私は最近感じる事は、そういうところにまでおりて行って下さる神様だよ。」というて私はこの月次祭のお話をさせて頂いた。
  [氏子の悲しみは、神のそのままの悲しみだと。 人間の 氏子の喜びは、そのまま神の喜びであり、悲しみはそのまま神の悲しみ、難儀はそのまま神様の難儀なのだ]  ですから、私共がですねえ  もう本当にこんな事ではおかげが頂かれんと悲しんでおる 嘆いておる時に神様はやっぱりそれにも倍した思いで、嘆いてござるんだ 悲しんでござるんだと・・・・・
  だから私は最近思うにね、天地の親神様がね私共と共に苦労して下さる、共に悲しんで下さる、共に喜んで下さる。そういう神様はね もう御道の信心頂いておる者だけの為の親神様だとこの頃感じる。神様が有るやら無いやらわからん、何が親かと云う者に何の、そうゆう氏子達〔と〕一緒に喜んだり悲しんだりして下さるはずがない。私共は親である子であると名乗りを上げおうた、行神金光大神のお取り次ぎによって天地金乃神様、天地の親神様を知った。そしてその神様に縋る事を覚えた。そういう氏子の上に私は、神様は共に喜んで下さったり、悲しんで下さったり、共に苦しんで下さるという事を最近思う。
  私はこの事は、ちっと言葉足らずでまだ本当の事じゃないだろうけれどもね、
先日私はある人にこういう話をしたと云うて又、話を続けたんです。
  山口県に踊る宗教というのが非常に発効したですねぇ 北村さよという方が、
<天照皇大神うきょう>と云うのを拝んで非常に御ひれいがたったのです。その方はもう非常に信念の強い方だったらしいのですよねぇ もうその信心をする者は氏子と見られたらしいのですけれども、そういう信心をしてない人間は全部もう 蛆虫だっちゅう〔のです〕。どんなに偉い人にでも「お前達は蛆虫だ」と言われる。「俺の云う事を聞かんと、お前は【 】もう死ぬとぞ」といったような事を平気で云う。それがもう実際に生きたり死んだりするとですから、それこそもう大変な勢いでその信心に帰依する人が一時は多かったんです。
  だから本当に私共は、教祖様は人間をみんな神の氏子として云うて下さる教祖が有るかと思うとです。人間をまるきり蛆虫扱いにしておる人もあると私は思うておったけれどもです、私はこの幾日か思う事はね、本当に金光様の御信心を頂いて、神様との名乗りを上げた者、ここにこういう神様がおられた、こういう有り難い親神様がおられた。云うなら親と子との巡り会いが出来た、その氏子達の上に、共に喜び、共に悲しみ苦しんで下さる神様、確かに親とも思わない、神とも思わないと云う者の上に神様のそういう働きがあるはずない。
 私は本当に神様の眼から御覧になればです、信心の無い者の姿はやっぱり、もうナメクジも同然じゃなかろうかと云うて私は話たんです。本当に その北村さよという方じゃないけれども、私は大きな神様の眼から御覧になればです、人間も蛆虫もあんまり変わったものじゃない。ただし、そこに人間として万物の霊長としての自覚がでけて、氏子としての自覚がでけて、親よ子よという名乗りを上げられた者の上にです、神様の特別の働きが有るから、私どんが苦しんどったんじゃあ、そのまま神様を苦しめる事と同じ事だから、信心によっておかげを受けて「神様 このような極楽のおかげを受けとります。このような有り難いおかげを受けとります。」と云うてお礼の申し上げれるようなおかげをね 日々頂いていく事によって神様も又助かって下さるんだ、私共と共に助かって下さるんだと
云うて話しておりましたら、涙をポロポロ流してですね「先生、今日の御理解を
頂いて分かりました。僕は、どうして神様が世の中に難儀を作んなさるじゃろか
と、もうそれがひとつの疑問だったんですよ。成る程、信心させて頂いておる者の上にのみ、親神様としての働きをして下さるんだという事が、今日の話を聞き
よると分かった。そこから少し分かりだした。」と云うて、又、それから【  】
話を聞いて下さったんですけれどもね。
  例えばその青年なんか、自分で自分の心を殺してしもうとった。ところが、私のようにとことん落ちている者でも助かる事が出来る。出来るも出来ないもない、
神様はそこまでも落ちておる身を〔一緒に〕落ち込んで行って下さる神様だ。あんたがそんなら泥田んぼの中に落ち込んどるなら、神様もその中に一緒に入っていって、そこから救うて下さろうとする働きを、必ず下さる神様だ。という御理解を頂いて、いわゆる心が生き生きとしてきた。これからも頑張ります。と・・
  只、私が言いたい事はね、どういう中にあっても、信心を切ってしまうような事をするな。どういうおかげを落としとる中にあってもです、やはり心の底には、生神金光大神を唱え続けさせてもろうておる、というおかげを頂かなければいけない。と云うて まぁ話ましたが、例えば、その青年の心の中に、今までは自分で自分の心を殺しておったけれども、お話を頂いてその親神様の心情と云うか、それを聞かせてもろうて、こういう屑の子、こういうだらしのない私でも、神様が私と共に難儀をして下さる、やはり悲しんで下さる、そういう神様という事を分からせ分からして頂いたんです。そこから、新たな光明がさして来たような気持ちが起きてきたと、こういう訳です。
  同じ事が同じ状態の中にあってです、我が心で殺す事にもなりゃあ生かす事にもなる、しかもその殺しておっただけでは、それはおかげは頂かれません。けれどもそういう中にあっても、心を生かす事を分からしてもらう、そこからいわゆるおかげが頂続けられる道が開けてくるのです。
  【 】御祈念が終わってここへ座らせて頂いた途端に『駐車禁止』という事を頂いた。ここには車を止めてはならないという・・・・・どういう事か私はさっぱり見当がつかなかった。けれども今日の[おかげは受け徳、受け勝ち]というところを頂いておるうちに、何かこうおぼろげながら、こういう事ではなかろうかと思わせて頂いたんです。
  昔、支那に大変タフな王様がおられましてね、お后を何十人と持っておられた、
ですから毎日、どのお后の所に今晩泊まろうかという事も、なかなか思い出せない位、お后の家がずーっと長屋のような所に一軒一人一人にかこうておられる訳ですよねぇ。そこで工夫つされましてね、そのお后の住んでおられる家の前をね
山羊に乗って通られるんですねぇ。その山羊に鈴をつけてチリンチリン音を立てながら前を通る訳ですね。その山羊の鈴の音が止まった所、云うならば山羊が止まった所に泊まられるという趣向らしいですね。
  ところがです、いつもいつも必ずある所の家の前まで行きますと、そこで必ず山羊が止まる。という不思議な事が有るので、他の人達が研究したんですねぇ。
その王様をお后が一人で独り占めされる訳です。ところが山羊は必ずそのお后の前に行くと、鈴の音が止まってそこで泊まってしまう。そこでそのーいろいろ研究したところがです、そのお后の家の前に盛り塩がしてあった。山羊というのは塩が好物 らしいのですよねぇ。ですから、自分の好きな塩が目の前に積んであるものですから、積んである所にピタッと止まる訳なんです。
  私はね、思う〔ん〕ですけれどもやはり、今日 私が申しますように一生懸命信心させてもらい、教えを頂いて自分の心をいよいよ生かしていく稽古をさせてもらうという事、同じ事柄でも自分の心の頂方、受け方でおかげにもなりゃぁ、おかげにもならんのです。自分の心がね、本当にお礼を申し上げねばならないようなものがある人はね、悔やんだり悲しかったりしておるような事もございましょう。ある人は腹を立てておるような事の中に、同じ事柄をある人は喜んでおる人もありましょう。
  だからそういう事ではね、おかげは受けられない。そこで私共はたえず我が心で我が身を生かす事の術と云うか、そういう道を体得さしてもろうて、全ての事の中に神様に喜んで頂けれる心が生き生きとする生き方をね、覚えていく、体得
していくのが信心なのであります。そこにおかげが受け続けてゆけれる、おかげは受け勝ちになってまいりましょう。
  その上にですね、例えばこの[受け徳]という事、それは今私がお話を致しました「塩を積む」という事を覚えるという事だと思います。もう神様が絶対、その家の前に来なさったらピタッと止まって下さる程しのです、いわば〔塩を積む〕ような意味に於いての信心を体得していく事です。
 どういう事だと思いますか。これなら絶対、神様を自分とこの家の前に止まる事が出けるという程の信心、そこになってまいります時には、もう、受け徳であります。徳を受けます。
  まあ それは、いろいろに云われます。どんなにおかげを頂きたいと云うても、
自分とこの家の前が駐車禁止であったら誰も寄ってはくれませんよね。
  昨日、一昨日でしたか、【  】青年会に嘉朗さんが代表で参りましてね、<鳥栖の教会であっとる>あちらは、せせこましいい所に有るから、ちょっと油断したらすぐぶっつけないかん所に有るのです。そんな所から帰って来てから、だったからでしょう、「もう何と云うても合楽の場合には、バーッと車が正面に入れられる事、もうこれが一番、合楽の素晴らしい事ですよ。」と云うてから話すのです。皆さんでもそうです。車に乗って来られる方が、さーっと乗り入れられる、ここに止めたら罰金とられるかもしれん、ここに止めよったらぶっつけられるかもしれん、といったような、狭くもなければ駐車禁止でもない、こういう例えば駐車場という広場を持っておるという事がです、みんなが気持ちよく車を乗り入れる事が出来るようにです、私共の心の中に、そういうひとつの空白と云うか、心の広場とでも申しましょうか、云うならゆとりとでも申しましょうか、豊かな心とでも云おうか、そうゆう私は心がなからなければ神様の車は止まりませんよ。
  そこで豊かな心を作る事の精進をする訳です。私共のおかげを受けなければならない前が、駐車禁止になっておるような事はないでしょうか?  もうぎっちり自分の事でいっぱい、それも有り難い事でいっぱいならいいばってん、もう腹の立つ事やら情けない事やら、そういうような事でいっぱい、もう車の止まる余裕がない。これではね、おかげは受けられません。いわゆる皆さんの心の中が、駐車禁止のような状態になっとりゃせんだろうか。「塩を積む」という事は、どういうような事か、これは幾らも有りましょう。特別の本当に神様にお喜び頂けるような修行もいろいろ有ります。これは結局皆さんの我が心で練り出していくところのものでなからにゃなりません。
  昨日、茂さんとむつやの信司さんがお礼に出て参りましてから・・・今日があちらの謝恩祭です、宅祭です。それで昨日、兄弟二人でお供え物を久留米に買いに行ってそして「先生、おかげ頂いてこういうものが出来た」と云うて見せて下さるのですが、私は覚えなかったんです。そんなものあげておったかどうか。茂さんに私が何かここで書きものをしたとき、ついでに私が『誠』という字を書いた。言(ごんべん)に成(なる)と『誠』。〔誠〕を書いてあげておったのを、昨日は、それは見事な額に仕立ててきてあるんです。その時に頂いた御理解が、『言う事が成る』という事。言う事が成就するという事、言うておる事が成就していくという意味なんです。それには「誠になれよ」という事でもありましょう、
誠の追求をしていけという事。
  言うておる事が成就する、成っていく、神様が自分の言うておる事はいちいち聞き届けて下さる程しのおかげ・・・おかげは受け勝ちであります。それにはいつも、自分の心を本気でね、生かしていく我が身は我が心で生かしていくという事をです、自分の心ひとつでおかげが生き生きとしてくるという事をで
す、心に止めて、まあ 云うならば心が真っ黒うなるような事を言われたり起こったりする事がいたしましても、それでね暗くなる事のない、自分の心を殺す事のない程しの信心の、いわば心の広場と云うか、持っておかなければならない事に気付かせて頂く事でありましょう。
  受け徳、徳を受けていく、こりゃあいつも申します。徳を受けていくというのには、いろいろな信心がありますが・・・・・今日は特に、私はおかげを受け勝ちと、徳という字をいっぺん通り抜けて、私共おかげを確かに頂き続けたい。頂き続けたいならば、いつも自分の心を生かし続ける工夫をしなければならない。
それは、どういうような時であっても、そういう心を生かし続ける事は大変な事だろうと思わずに、小学校の時にやっぱり、遠足もありゃ運動会もある、楽しい遊びもある、ラムネの玉をして遊ぶ事もある、パッチをして遊ぶ事もある。そうゆう自分がパッチをしたからラムネの玉をしたから、もう自分なおかげが受けられんなんていったような思い方をして、自分の心を殺す事なしに、パッチをしながらでもラムネの玉をしながらもです、そこにね、生神金光大神がその底に生き生きとして唱えられておるような信心さえありゃぁねぇ、それをとがめなさる程しのものじゃない、とがめなさるような神様ではない。
  どういう所に落ち込んでおっても、そこには神様が下りて言って下さる、心情を吐露して下さる神様だと・・・・・そこの中からでも、自分の心を生かしていく事が出けるんだと、その自分の身を心で生かしていく工夫と云うか、信心がなされていかなければいけないと思います。
  今日はとりわけ、おかげは受け勝ちと、成る程、そうゆう生き方になればおかげはもう、受け勝ちという事が言えるのじゃないでしょうかね。どうぞ。